「80年代の記憶」は彼を怒りと苦痛に駆り立てる。スパイ容疑で連行され、保安司の西氷庫分室に連れ去られて拷問された記憶は本当に忘れたかった。しかし、金浦空港に降り、軍人たちが追いかけてくる悪夢を見た日には、必ずあの日が思い浮かび、体に痛みが走った。特に2年間の保安司強制勤務は彼の傷をより深くした。
- 86年に日本に逃亡してから2000年になって故国の地を踏んだというが。
それまで起訴中止状態だった。行政制裁を受けていたため、パスポートを発給できなかった。当時私は大阪の生協団体で韓国語講師として働きながら韓国の市民団体と交流することに力を注いだ。それで信頼が生まれたが、私がそんなもどかしい境遇にあることを知って生協組合員と韓国語講座を受ける人たちが署名運動が繰り広げ、当時金大中大統領に嘆願書も提出してくれた。その年3月15日、大阪韓国総領事館から行政制裁を解除するという連絡を受けた。パスポートの発行が可能になって5月に帰国した。15年ぶりだった。
- 今回また帰国した理由は。
まず民主化運動の補償を申請できるか調べて、民主化精神継承国民連帯の過去事清算活動に協力するためにしばらく帰国した。
- 2000年15年ぶりに帰国する時、機務司から圧力は受けなかったか。
当時大阪総領事館からこんな話を聞いた。私の問題で法務部と外交部、機務司など三者が会議を開き、機務司が私に対して手を出さないと約束して行政制裁が解けたというのだ。腑に落ちなかった。機務司が私に自分たちの過ちを謝らなければならないと言うのに、私に何か恩着せがましくて....
昨年、私が疑問死真相究明委員会に陳述をするために帰国した際、保安司に一緒に勤務した人から電話がかかって来た。たぶん上層部の指示で電話をしたようだった。私が疑問死委員会に陳述した内容がマスコミに報道された後、退職した捜査官が大いに怒って自分を訪ねてきたと、「彼が何をするか分からない、あなたの息子もソウルにいるから気をつけなければならない」と言った。事実上の脅迫だった。
- 2000年に初めて帰国した時はどうだったのか。
相変わらず80年代に捕らえられていた。友達とビールを一杯飲んでいるのに、私が「おい、なぜ保安司は私を捕まえに来ないのだ」と話したほどだ。
- さる88年<保安司>を著述した理由は。
まずスパイにでっち上げられたのが悔しくて書いた。そして2年間保安司に強制的に勤務させられながら通訳として人々を取り調べる現場に呼び出され、拷問する場面を目撃した。私は通訳だけしたが、拷問される人には生地獄だった。そんな経験が積み重なって保安司を解体しなければならないという結論を出した。しかし、それは国内では不可能だった。家族も危険になることなので日本に脱出した。日本に行った直後から本を書き始めた。
- <保安司>本を出した時当局の圧力はなかったか。
8000部が押収された。また出版社の社長は指名手配され、職員2人が連行された。ある審査委員から<保安司>が<朝日新聞>ノンフィクション大賞の候補だという話を聞いた。ところが韓国側でノンフィクション受賞作を公表すると88オリンピックの取材ができないと圧力を入れたようだ。後で聞いたが、<朝日新聞>幹部たちがオリンピック取材のために私の作品を大賞から優秀賞に降格させて受賞作も公開しなかった。
- <保安司>出版以降、軍事機密保護法違反で起訴中止され、2000年まで帰国が禁止されたのではないか。
形式的な理由は本を出版したことだったが、実質的な理由は別のところにあった。本が出た88年秋、私は五共国政監査に証人として立つ予定だった。それを妨害しようと起訴中止にしたのだ。
妻と子供が人質に捕らえられ、保安司の強制勤務に逆らえない...、五共はそんな時代だった。 c グ・ヨンシク
- どうしてスパイ容疑を受け、拘束されたのか。
当時当局は在日韓国人の間に網員(スパイ網)を浸透させていた。だから反政府発言をしただけでもスパイとしてでっち上げることができた。実は私は何のために捕まったのか今でも分からない。4日間眠らせず、棒で殴って電気コイルを指に絡めて水責めして...、そんな拷問を受け、苦痛と恐怖....、接触を拒否した北朝鮮工作員の影響を受けて工作活動をするために本国に来たというように調書は作られれた。
- スパイ容疑を認めたのか。
認めなかった。反国家団体を構成したり、そこに包摂されて活動しないとスパイ容疑が成立しない。しかし私の場合、捜査官が創作したのだ。神戸のある公園で対南工作員である先輩に忠誠発言をしたというふうに。
- 保安司はなぜあなたを特別採用したのか。
私の口で言うのはちょっと変だけど、在日同胞留学生にしてはしっかりした韓国語を使い、在日韓国学生同盟で活動して日本の事情に詳しく、通訳官として有能だと判断したようだ。
- 特別採用の条件はなかったか。
私は保安司勤務に同意していない。妻も保安司に勤務すれば離婚すると言った。ところでこういう言い訳がその連中に通じるはずがない。私は彼らに私を拘束するように要求した。
- 拘束しろというほど強硬に保安司の勤務に反対したのに、なぜ勤務するしかなかったのか。
妻と子供が人質だ。保安司は人を殺すことを蠅の命ぐらいに考えるところだ。逆らうことができなかった。五共はそんな時代だった。たまになぜ保安司に勤務したのかという質問を受けるが、その度にこう答える。保安司に勤務していなかったら、うちの家族は一家心中していただろうと。保安司に勤務するか、一家心中するか、二つに一つを選ばなければならなかった。あなたならどうする?」
- 当時在日韓国人留学生がスパイ用容疑者として多く連行された理由は。
捜査官の表現を借りると、スパイに一番作りやすいのが在日韓国人留学生だ。同じ町に朝総連の人が住んでいたとする。その人から金日成を賛美する話を聞いたと話す瞬間から拷問は始まる。賛同したという話が出るまで。
- 当時保安司ではどんな任務を担ったのか。
情報分析が基本任務だった。隷下部隊から上がる対共諜報を分析して諜報価値を判断することだった。留学生をスパイにする場合、私を通訳として使った。
- 当時、安企部と保安司の関係はどうだったか。
40代の在日韓国人がスパイ容疑で捕まってきた。ところが彼と親しい人が安企部(国家安全企画部)のある幹部をよく知っていたようだ。それで安企部の人を(対共)分室に送ったが、保安司では相手もしなかった。安企部側で解決しようとしても無駄だった。
- 当時、安企部さえ保安司の権勢に押されたのか。
そうだ。保安司は五共の実勢だ。80年代の過去事を清算するには保安司を解剖しなければならない。84年に保安司令部に行ったが、壁にチョン・ドゥファン大統領の年頭教示がかかっていた。その中で「国民の恐れる存在になれ」という内容は本当に衝撃的だった。
- それを見ながら何を感じたかな。
独裁、ファシズム....、一言で恐怖政治だ。当時こんな冗談が行き交っていた。「学士の上に修士、修士の上に博士、博士の上に陸士(陸軍士官学校)、陸士の上に保安司、保安司の上に女史(イ・スンジャ夫人)」。保安司が唯一できないことは男を女に変えることだけだという話もあった。
“保安司の歴史があまりにも呪われている...、生まれ変わらない機務司は解体しないと”
- 直接介入した工作があるのか。
工作は担当官が別にいる。日本語になった証拠物を翻訳したり、盗聴・感聴したテープを翻訳する仕事をした。
- 平和工作は緑化事業とは別に行われたと言ったが。
平和工作の創始者はソ・ウィナムだ。彼は保安教育隊の
教育官だった時、当時チョン・ドゥファン保安司令官に緑化事業のブリーフィングをした。平和工作は大統領の関心事項で、工作金は心配するなと言ったとも聞いた。平和工作は保安司と治安本部、安企部の合同工作だ。もちろん中心は保安司だった。第一教会事件も平和工作の過程で起こったものだ。
平和工作や緑化事業もすべて政権安保のために反政府勢力を抑圧するために実施したのだ。緑化事業は学生たちを、平和工作は宗教界の反政府勢力を抑圧するためのものだ。
- 保安司に勤務している間、忘れられないことがあれば。
まず私が拷問されたこと。そして他人が拷問されるのを見たこと。またうちの家族に苦痛を与えたこと。
- 保安司は現在の機務司に引き継がれ健在である。
生まれ変わったとは思えない。生まれ変わるためには過去の過ちを告白して謝らねばならない。依然と責任逃れをして過去を覆いかぶそうとしている。このような姿勢では国民の理解は得られない。機務司は解体しなければならない。その歴史がとても呪われている。
- 80年代の「保安司の記憶」のせいで現在大変な点は何か。
多い。常に命の危険を感じながら暮らした。<保安司>を書く間はナイフを持ち歩いていた。子供たちに何かしないかが一番怖かった。ふと不安になる時がある。悪夢も見た。私が金浦空港に降りると、軍人たちが銃を持って追いかけてきた。逃げようとして金浦空港を逃げまどう、そんな悪夢に悩まされた。
- 最近公安問題研究所の「思想鑑定」がまな板の上に上がったが。
思想を鑑定するのは人権侵害だ。
- このようなことが民主化政府の時期に行われたということに問題があるという指摘がある。
過去の清算がされていないからだ。形式的には民主化されたが、守旧勢力は依然として健在だ。
- 現在過去史の清算の流れをどう評価するか。
法的な限界が多々あるようだ。過去に人権侵害した人たちが過ちを悔い改めて告白するのが最善だ。しかしそれが難しいなら、ある程度強制力を持って調査すべきではないか。ソ・ウィナム(元保安司幹部)は過怠料1000万ウォンを払って終わった。1000万ウォンで真実を葬ってしまったのだ。
- 三期の疑問死委(疑問死真相究明委員会)の活動で明らかになったが、国家情報院と機務司など核心権力機関が調査に非協力的で、困難があった。
国民の願いに呼応できず、相変わらず旧態毅然とした姿を見せていて一番残念だ。恨みを飲んで死んだ人がどれほど多いことか。苦しみを抱えながら生きる人が数え知れないほど多いが、それを放置したままて未来に向かうことはできない。
- 国家情報院が官民合同で調査委員会を構成する予定だが。
具体的な何かを見せるまで疑うしかない。国家情報院が早々に解明したものがないではないか。事実が明らかになるまで信じられない。
- 民間部門が参加することに対してその限界を指摘する声がある。
国家情報院や機務司のような権力機関と妥協して真実を掘り起こすことができるだろうか。彼ら機関の体質から見て難しいと思う。
- これまでの韓国社会の変化をどう評価するか。
ノ・テウ大統領は保安司出身だったので、彼には期待しなかった。しかし、キム・ヨンサム政府は期待をかけて請願書を書いたりもした。結局金大中政権の時に行政制裁が解けた。金大中政府になってやっと韓国が民主化されたと感じた。外見は大きく変わったが、まだ内側にはたくさんの問題を抱えている。虐げられた人がまだ虐げられたまま生きているではないか。疑問死の真相も究明されず。
- その問題をどう解決すべきだと思うか。
民主化されて手続きをしなければならないことはもどかしい。人権を侵害した者を今は人権という名で保護しなければならないアイロニーが...、徹底的に真相を究明できる法を制定しなければならない。
- 過去事清算関連法を通過させるために努力している与党らの努力をどう評価するか。
初めて過去事真相究明法を持ち出した時に比べてどんどん後退している。ハンナラ党と妥協したのではないかと疑う。真実を明らかにするためには、法的拘束にまでつながることができる強力な調査権がなければならない。
- 在日韓国人社会に対する改革の声が高いが。
在日韓国人社会が引き裂かれている。1年に1万人程度が日本に帰化している。祖国に対する帰属感がない。騙されて北朝鮮に行った人や韓国に勉強に行ってスパイに追い込まれた人たちに祖国の場所があるだろうか。本当に祖国分団が(在日韓国人社会に)大きな影響を与えている。