14日午前、ソウル汝矣島(ヨイド)の国会正門前。 在日韓国人のキム·ビョンジンさん(49)が「私はスパイではない」と書いた抗議文を首にかけて一人デモをしていた。 母国留学時代、保安司でスパイにでっち上げられ拷問された上に、強制的に勤務までしなければならなかった彼は、事件後21年ぶりに民主化運動関連者の名誉回復申請をするため、9日入国した。
キムさんに不幸が迫ったのは延世大大学院で勉強していた1983年7月。保安司職員4人が、「(キムさんの)後輩がデモ中に捕まった。身元確認だけしてほしい」と言うなりいきなり車に乗せた。 連れて行かれたのは保安司の西氷庫分室。眠らせず、電気拷問、水拷問など3カ月間にわたる拷問と脅迫の末、金さんは「スパイ」になった。
「韓国にジャージャー麺というのがあり、安くておいしかった」と話したのが「ソウルの物価・時勢を探知・収集・報告したスパイ行為」に化けるやり方だった。 パスポートまで奪われた彼は、公訴保留の条件で保安司で2年間、対共情報分析業務を担当する軍務員として働かなければならなかった。
拷問を受けたちょうどその場所で働いた。ぞっとするものだった。「棒で全身を殴打した係長に再び会った時は、目が眩み、自分でも気づかないうちに拳銃を探したほどだった」と回想した。 彼は「大学院に復学し、今後も保安司活動に協力する」と約束した後、保安司から「釈放される」ことができた。 日本に逃避したが、そこでも追跡され、父親の家にも泊まることができず、塾の講師、銭湯の清掃員などを転々としながら厳しい生活を続けた。
キムさんは1988年に朝日新聞ノンフィクション部門に自身が経験したスパイ捏造事件などを描いた『保安司』が選ばれ、韓国と日本で同時に出版され波紋を起こした。 キムさんは保安司の内部事情を漏洩、「軍事機密保護法」に違反したという理由で入国禁止措置された。
キムさんが再び故国を訪れたのは2000年。 キムさんのハングル講座を受講している日本人1800人が、当時の金大中(大統領)宛に嘆願書を送ったのがきっかけになった。 キムさんは最近の国家保安法を巡る論議に対して、「世の中が変わるためには過渡期が必要なこと」だとし、「国民を精神的に抑圧する国家保安法は必ず廃止されなければならない」と話した。 キムさんは15日、ソウル鍾路区(チョンノグ)の民主化運動補償審議委員会を訪れ、名誉回復を申請する。
イ·ヒョヨン記者utility@seoul.co.kr
2004-12-15 22面
原文
“2년간 보안사 강제근무 재일교포 김병진씨 1인시위”
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