チュ・ジェヨブ(秋在燁)陽川(ヤンチョン)区庁長の拷問容疑に決定的な証拠となった著者キム・ビョンジン(金丙鎭)さんに会った。
スパイ団事件で保安司に連行され通訳として働くように強要された彼は、「(保安司が)何をしでかしているのか必ず記録する」という覚悟を………
入力2012.11.2109:53号数270
キム・ビョンジンさん(57)に会おうと思ったのは、もしかしたら負債感のためだったのかもしれない。
告白するが、記者はソウル陽川区に住んでいる。今回、法廷拘束されたチュ・ジェヨプが3度目の区庁長になるのを過去10年間、地域住民として見守ってきたからだ。チュの拷問前歴をめぐってあれこれと囁かれたのは2000年代半ば。しかし、「まさか」と、思っていた。選挙の過程でこの問題を提起した相手候補が、虚偽事実流布容疑で有罪判決を受けるのを見て、やはりただの黒色宣伝だったのだと思った。でも、そうではなかった。
去る10月11日、ソウル南部地法(地方裁判所)はチュが保安司勤務時代に拷問に加担した事実が認められるにも関わらず、法廷でこれを否定した容疑などがあると判決した。裁判部がこのような判断を下すのに核心的な役割を果たしたのがキム・ビョンジンさんが1987年に書いた<保安司>だった(韓国語版は1988年出版)。在日同胞3世で1980年代中盤に保安司に勤務していたキムさんが日本に脱出した直後に命をかけて書いたこの本にはチュをはじめ、当時拷問に加担した保安司捜査官20人余りの実名が記載されている。
2年間勤務する間にあった重要なことはすべて頭の中に収めた。正確な日付まではなくても大まかな時期と状況は覚えられた。
拷問・スパイでっち上げに加担した加害者は全員名前を明かすという原則を持って始めた。末端でも歴史的責任を免れることはできないと思った。そうしてこそ公平ではないだろうか。被害者たちは偽スパイなのに実名・写真が全部マスコミに載った(キムさんの場合も裁判が開かれる前に保安司がキムさんをスパイだとマスコミに公表して被害を受けたことがある。当時のテレビニュースにはパスポートに一緒に貼っていた一歳の彼の息子の写真まで公開された)。
私はチュ・ジェヨプという名前も忘れていた。十数年前のことではないか。ところが2000年代中盤、真和委(真実・和解のための過去事整理委員会)の調査を受けるために韓国に来て機務司(保安司の後身)の人に会ったが、その人が「チュ・ジェヨプを知ってますよね?」と言うのだ。それで「誰ですか?」と聞き返したら、「あの金塊を密輸したチュ・ジェヨプですよ。その人が今区庁長をしている」と言うのだ。その話を聞くと昔のことを思い出してびっくりした。
1988年国政監査で当時統一民主党議員だった盧武鉉元大統領が私の問題を初めて追及したが、その時も保安司の論理は同じだった。私が同僚を裏切ったことで保安司に採用されたと。こんな話の通るはずがない。私は彼らが強要する通りに日本で起こったことを話しただけだ。日本の知人を告発したり、韓国に誘引したことは全くない。
(しばらく複雑な表情だったが、声を大にして)日本に戻った後、正直、様々な噂が行き交っていた。一部の人は私が直接拷問をしたとまで話していた。北朝鮮に近い韓統連のような組織は最初はこうも言っていた。保安司を告発したかったら、なぜ自分たちに相談しに来なかったのだと。ところが、私はキム・イルソン・キム・ジョンイルといえば嫌悪を覚える人間なのだ。後で、彼らはあれこれと脅迫してきた。一方は私を北のスパイだと言い、もう一方は南韓の工作員だと言い、本当に二重三重に苦しめられた。そのせいで日本でどれだけ大変だったか…...お酒もたくさん飲んだ(南北どこにも属さない境界人としての彼の認識は〈保安司〉でも絶え間なく表れる。彼によると、北送(いわゆる帰国事業)というイベントで在日同胞の労働力を搾取した金日成政権や在日同胞スパイ団事件で公安政局を作ったチョン・ドゥファン政権は在日同胞を犠牲にしたという点で変わらない。そうしながら分断された祖国の最大の生贄と言える同胞たちに依然として一方的な忠誠を強要する双方の体制の暴力にウンザリしているようだ)。
<保安司>を書かなかったら私は人格的に破壊されていただろう。「私は保安司という怪物を相手に闘っている」、そんなプライドがなかったら耐えられなかったと思う。それでも歳月が流れて、あの本があったからこそ多くの人が再審を請求できたのではないか。無罪判決ももらって。
ない。今回法廷証言しながら1983年に私を拷問した捜査官が裁判を参観するのを見た。
ただ見るだけだった。今度会ったら必ず聞きたい。もしかして反省したことがあるかと。良心の呵責を感じたことがあるかと。拷問加害者に対しては最後まで責任を問わなければならない。そうしてこそ過去の清算が可能だ。国家レベルの謝罪では足りない。被害者は人生が全部破壊されたのに、加害者たちは長官や国会議員になって出世し、末端は末端なりに年金をもらいながら、左うちわで暮らしている。これは筋が通る話なのか? 最近拷問犯罪については公訴時効をなくそうという話も出ているが、いっそ親日人名辞典のように拷問前歴者人名辞典のようなものを作ったらいい。そうしてこそ拷問に加担する人間が二度と現れないのではないか。
原文
“보안사와 싸운다는 자존심이 나를 지켰다”
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