文化の本と考え
「否定的な進化」の時代
ハン・スンドンの読書無限
ハン・スンドン記者
修正2019-10-19 11:23登録2013-02-22 19:52
強盗に遭い、押し問答の挙句、二人ともに警察署に連行された。ところが、とにかく警察は私が先に攻撃したのではないかと責め立てる。夜になぜ家から遠く離れたところまで行ったのかと言う。相手は顔立ちも端正で、強盗などする人では全くないとし、それとなく彼を擁護する。そして、もしかして私の方にに前科があるかどうか照会してみようと言う。
これは一体どうしたことか?法廷の判事さえ、むしろ私が相手を先に攻撃した可能性が大きいと追及する。強盗にあったのも腹立たしいが、逆に強盗に追い込まれてしまうとは呆れる話だ。その上、警察署、検察庁、裁判所に出頭するため、生業はあきらめ、家族は散り散りバラバラになり、近所の人々は私を遠ざけ、親しい友人も連絡を絶つ。どうしようか?
「疑問死真相究明委員会」と「真実和解のための過去事整理委員会」で活動したキム・ドンチュン聖公会大教授が当時活動経験と資料をもとに書いた文をまとめた<大韓民国残酷史>冒頭に「仮定」した状況だ。
在日同胞3世のキム・ビョンジン氏が書いた《保安司》は、そのような仮定が現実でどれほど簡単に、時にはさらに極悪に、具現するかを赤裸々にした別の事例だ。 五共時期の1983年7月9日、ソウル冠岳区自宅近くで彼が遭遇した「強盗」は今は国軍機務司令部に名前が変わった当時の国軍保安司令部の対共処捜査課捜査2係要員だった。大企業研修院の日本語講師の仕事をしながら延世大国文科大学院に通っていた留学生キム・ビョンジンはソウルで結婚した夫人、生まれて二ヶ月余りの息子と一緒に一生懸命楽しく暮らしていた。その日、前触れもなく保安司の西氷庫分室に訳もわからぬまま連れて行かれた。そして数ヶ月に及ぶ脅迫と拷問の末、強盗があらかじめ描いておいた企画案どおりの北朝鮮スパイになった。容疑や根拠?、何もなかった。あえて言うなら、日本で「チョーセンジン」と差別を受け、祖国では「半チョッパリ(日本人の蔑称)」として蔑視されてきたマイナリティ(弱者)ディアスポラ在日同胞という事実しかない。
保安司はいくら絞っても何も出てこないと知ると、スパイ前科が残る「公訴保留」という奇妙な手続きを経て彼を半分解放し、2年間 保安司の「逆用スパイ」として特別採用した。《保安司》がさらに特別なのは、被害事実の暴露だけでなく当時ののスパイ捏造過程に、もちろん本意ではなかったが、直接加担しながら体験した事実までつまびらかに記録した貴重な報告書だという点だ。キムさん一家が1986年2月初めに日本に「脱出」するとすぐに書き始めたこの本は、まず日本で出版された後、1988年に国内でも出版された。しかし、刊行されるやいなや全量押収された。最近、その当時スパイで捏造された在日同胞が再審で無罪を受ける事例が相次いで出ているが、法廷に証拠として提出された《保安司》も一役買っている。
原文
“부장적 진화”의 시대
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